カウンタックは起死回生になったのか?

皆さんおはようございます。

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車好きなら誰でも知っている、ランボルギーニ LP400 「Countach]
イタリアでの呼び名は クーンタッシュ と呼びます。
人が奇妙なものを見たときの驚いた声、そういう意味だそうです。
私がこの車を始めてみたのは、1975年の春ごろだったと思います。
10月にオープンした自社ビルには、メカニックも全国から募集があり
工場にはフロントマンも新規に入れました。
ちなみに私はオープン以来工場の片隅で部品の管理の仕事。
何度も下のショールームに行っては、当時の営業部長に嘆願して
ようやくこの春から営業見習いとして下に降りることを許されたのでした。

なので、ランボルギーニの最新型、勿論日本初上陸のこのLP400は
私も興味深々、写真では何回も見てはいましたが、
是非実物にお目にかかりたいと。
この頃は会社から10分程度の東神奈川と言う場所の海沿いの保税倉庫が
全ての車両の陸揚げ場所でした。
大概の車はコンテナーに入ってきて、ここで降ろすわけですが、
たまにマセラーティの場合、大きな木の枠組みに入ってきた時もありました。
その木枠をバラスのが大変な仕事、
おまけにマセラーティだけだったのですが、全ての新車には
かなり濃い、蝋燭のようなワックスを塗布してあり
洗剤で洗っても取れません。
仕方ないから、トヨタの輸出車を扱う専門店に持ち込み、
特殊な薬品でそれを毎回落としてもらいました。

比べてランボルギーニは何もなし、
舗装されていない草が生えている地べたにそいつはうずくまるように
身を潜めておりました。
ボディカラーは ブラックのメタリック 内装はタン
黒なので余計に低く、威圧感を醸しだしておりました。
悪く言えば「ゴキブリ」

同行したメカニックがバッテリーをつなぐと、
誰が最初にエンジンをかけるかという話になりました。
その時己晴さんも同行していましたが、
あまり興味が無いようで、フロントマンに「お前がやれ」
とキーを渡しました。
彼はレースカーのメカニックの経験もあったので、適任だと思ったのでしょう。
おもむろにドアーを開けるとシートに乗り込み、
イグニッションキーをひねり、電源をオンにしました。
カチカチカチと電磁ポンプがガソリンをキャブに送る音が聞こえました。
始めは素早くカチカチカチ、数秒後にはカッチ、カッチ、カッチと遅くなります。
キャブにガソリンが送られた証拠です。
フロントマンがセルを回すと暫くクランキングをしたと思うと、
ボウッ と言う音と共に始動しました。
意外と音は静かです。
後で分かりましたが、マフラーには二つのタイプがあり
タイプ1、 タイプ2と呼ばれていました。
タイプ1は 殆ど直管に近く、音も大きい、
タイプ2は かなり大きな弁当箱のようなサイレンサーが付き
消音効果は大でした。
この時はタイプ2が付いてきたのです。

暫くの暖気のあと、会社に向かい走り始めました。
その後を私は社用車のホンダのシビックで追いましたが
低く、まるで彫刻のようなそいつは現実の車とは思えないイメージでした。
会社に着いた後、洗車してショールームに入れようとしたのですが
玄関のガラスドアーを開けて、真っすぐ下がるとビルの柱があります。
なので、これを曲がりながら避けてバックしないとならないので
入れるのに、大変苦労したのを覚えています。
勿論手で押したので。
このショールームは車の搬入には不向きでした。
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続く

生きた足跡 その5

皆さんおはようございます。

前回まで並行輸入自由化の波に乗って
商売繁盛が永遠?に続くと思い、
銀行から多額の借金をして
デカい10階建てのビルを建てたところまでお話しました。

話は逸れますが。。
私の友人に「南原」と言う人物がおります。
彼と初めて出会ったのは、1984年頃
名古屋の郊外に住む彼は、
自分のマンションの部屋を拠点とするブローカーでした。
直ぐに意気投合し、
一緒にロンドンまで遊びに行く位の仲になりました。

彼は立身出世では無いですが、
常に商売の拡大を考察し、時代の流れを読み、
自分の出来ることは何でもトライする、
そういう行動力に長けた人物でした。

己晴さんが時代の波に乗ってサーフィンをするとすれば
彼はジェットスキーで人の先を行くタイプ
そのうち自慢の交渉力を活かし、
ローバーの代理店を取り、ボルボの並行輸入、
メキシコからオリジナルのビートルの新車輸入など
ありとあらゆるチャンネルで商売を拡大させました。

最盛期には従業員が100人いたと。
ところが、時代の波、時代の風は常に変化します。
シーサイドのアメ車輸入と同じように、
一時期流行ったボルボのステーションワゴン、オリジナルビートル
これらも数年の間に波が去り、残ったものは長期在庫
なので、彼は常に新しい車種、
新しい車以外のビジネスに翻弄されておりました。

テレビ番組「マネーの虎」に出演して、
起業家を目指す若者に、
辛辣な言葉をかけていたのもこの頃です。
ではその頃から30年が経った現在、彼の残した痕跡は?

まだ結論を言うのには早いと思いますが、
苦労しているのは事実でしょう。
つまり彼ほどの才能、行動力、ある意味カリスマ性があっても
一つのビジネスを成功させ、なおかつ10年20年30年と続けていくのは
並大抵のことでは無いと。

ここで少し自画自賛
当社 キャステルオートは創立以来37年の月日を生き延びてきた。
そのわけは?
シーサイドを反面教師にし、常に無理をしないで来た。
というか無理出来るチカラが私には無かった。
バブルの時もなんとか持ちこたえた。
ディノとかがようやく日の目を見るようになり、
レストアの真似事から始めることが出来た。 などなど、、、
つまり常に地味な商売。

人世に「イフ」は有りませんが、
もし仮に己晴さんに少しでも慎重さがあれば
シーサイドモーターは今でも続いていたかもしれません。
現実は1974年の9月にビルがオープンしたものの
ショールームに立ち寄るお客は今までの馴染みの客だけ。

新規のお客は外から眺めているだけで、
ドアを開けようともせず、
毎日、綺麗なショールームのソファーは、
己晴さんを中心とした友人達の雑談の場でした。
私達営業はそんなお客とも言えない様な人だとしても、
先に帰る訳にもいかず、
毎晩9時頃までウダウダと時間を過ごしておりました。
そういう人たちは大概、6時過ぎに来るからです。

そうなると当然経営は苦しくなります。
ビルの返済金、従業員の人数(最盛期で35人)
これらは待ってはくれません。
その頃、私がよく覚えている「カーグラフィック」の広告
完全なイメージ広告です。
「横浜の潮風に吹かれてイタリアから名車がやってきた、、、、」
など、私には妙に軽く感じたものでした。

続く

生きた足跡その4

皆さんおはようございます。

昨日から解散総選挙の公示で、
各政党の候補者たちは代議士になるか、
普通の人になるかの分岐点で駆けずり回ります。

どんな事でもそうですが、100%正しいと言う事はありえない話で
一時は飛ぶ鳥も落とす勢いであった、「小池組」も
翳りを見せ始めています。

一番の理由は、
政治は「誰がやっても難しい」
この部分でしょう。
今の安倍首相の国民の支持率、約40%
つまり二人に一人は支持していない
かたや、お隣の独裁者 金さん。
表面上は100%に見えます。
でも裏を返せば、50%以下かもしれない。
つまり見える部分と、見えない部分の落差が大きければ
その政治は矛盾していると言う事。

話を過去に戻します。
1974年当時、今から43年も前の事です。
シーサイドモーターを率いる己晴さんは、
人世で最大の見栄を張った。
つまり誰でもが認める、誰でも解る「社長」になろうとした。
イタリアのスポーツカーメーカーの雄である
ランボルギーニ、マセラーティの二つの総代理店
その象徴としての10階建ての立派な自社ビル。

これが後世に残れば、
俺も確実に生きた証拠を残せるだろうと。
ところが43年たった今、
「松沢己晴」という個人を知る人は?
シーサイドモータと言う名前は知っていても、
彼の名前、彼の人間性を知る人はまずいないでしょう。

横浜にいると時々、当時のシーサイドが販売した車に貼られていた
例のSSSAのシールを何の関係も無い車が貼っているのを見かけます。
私には何故 今はない会社のシールをわざわざネットか何かで購入して
貼るのか理解できません。
それだけシーサイドにカリスマ性があったのかなと思います。
私が死んでキャステルという名前が無くなっても
私の会社のシールをわざわざ貼る人もいないでしょうから。
もしシーサイドモーターという過去の会社が、
それだけ今も人の記憶から消えない「伝説の会社」なら
そこに当時どっぷりと浸っていた私が、その真実、また本当の実績
其処の社長であった、「己晴さん」の実像を語り継ぐのが
私の責務かと、
そういう思いでこのブログを書いています。


生きた足跡 その3

皆さんおはようございます。

誰しもが生きた足跡を後世の人に残せるという訳ではありません。
まず99%の人は、無名でひっそりとこの世を去る
別にそれが悪い事ではありません。
もし仮に10%の人が名前を残すようなことをしたら、
事件やら事故で世の中大騒動でしょう。

けれど100人に一人くらいの割合で、
何か自分の生きた証を残そうと思う人が出てきます。
才能がある作曲家、作詞家、文筆家、あるいは歌手
彼らは自分の持って生まれた才能を形にしているだけで
それが世間に認められれば後世に残るという話です。

ところがたいして才能もないのに、
自分の能力以上の事を起こし、
世の中に認めさせようとする人がいる。

あるいは普通の人の数倍、数十倍 金を稼ごうとする人がいる。
勿論それは簡単な事ではありません。
それこそ寝る間も惜しんで働き、考えなければならないかもしれない。
その結果、確実に成功するとは限らない、

だから一人は、違法な方法、
1、禁止されている薬物を法を犯してさばき、利益を出す
2、頭がボケている老人を騙し、金をだまし取る
3、宗教まがいな団体を立ち上げ、お布施と称して信者から金を掬い取る
などなど、方法は無数にあります。
でもそれらは全て犯罪、
捕まれば刑務所が待っています。

もう一人の場合
1、人から、あるいは銀行から借金をして、事業を立ち上げる
上手くいけば儲けもの、けれど失敗して多額の借金を作るケースが大半
2、サラリーマンの場合、
人世の夢だった「マイホーム」
東京の場合、通勤地から電車で揺られて数時間
夜、郊外の駅に着いてみると、駅前は真っ暗なんてこともよくあった話
大概は30年以上のローン
30歳で結婚して、マイホームを買ったら定年間際でようやく完済するタイムテーブル
ところが10年も払い終わった位で、会社が倒産、あるいはリストラにあう、
仕方なしにマイホームを売るが残ったものは借金のみ。
住む家も無いのに、残りのローンを支払う無情。

今回のテーマのシーサイドの場合、
2番の「マイホームの夢」に近しいものがあります。
己晴さんはそうでも有りませんでしたが、異母兄弟の兄がおりました。

彼は見栄っ張りで、ビル建設の話が出ると、盛んに己晴さんをたきつけます。
ビル全体を10階建てにして、
1階はイタリア車のショールーム それもランボルギーニ、マセラーティなど
2階はそれらのメンテナンスを行う工場
3階は全面駐車場
4、5階は貸事務所
6階はシーサイド専用の経理、会議室、社長室、そして自分の「会長室」
まるで一流企業並みですよね?
今考えるといかにのぼせていたかが良く分かります。

しかもそのフロアの絨毯が凄い。
イタリア製の濃いグリーンのカーペットは厚さが約10センチ、
歩くと靴が沈むくらいふかふかでした。
なので、当然社長室のテーブル、椅子、サイドテーブルなどは
全てイタリア製。全面ガラスの窓越しには外の景色が6階の高さからよく見え
まさに贅沢の極みでした。

これは現在のビル
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珍しい写真、
ウラッコに乗り込もうとする、己晴さん
左にいるのは私かもしれないが、覚えていない。
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これは1977年くらいの写真
新車の308GTBが数多く入って来て、私が殆どを売りさばいた。
営業に転身して3年目でトップセールスになっていた。
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松沢兄弟の目論見は、
見栄を張れるイタリア車を扱い、がっちり儲ける
ビル建設の借金は7階以上のフロアを分譲形式にして販売し
その利益で元を取る、
これが実現できれば正にドリームです。

ところが「やはり」世の中甘くは無い、
1974年、丁度この頃湾岸の石油生産国などが
欧米の石油メジャーに対して反乱を起こし、
俺らの石油の値段は俺たち自身で決める
そう言ったものですから、世界中が大混乱
ほぼ100% 輸入に頼っている日本も直撃を受け、
石油関連の物は何でも、値上がりし
副産物のトイレットペーパーまで無くなる恐れか
主婦の間で争奪戦になったのは皆さんもご存知でしょう。

政府も緊急指令を出し、日曜日はガソリンスタンドの販売禁止
なので、土曜日には明日ドライブに行く人たちが列をなしました。
そうシーサイドは「バッド タイミング」にビルを作ったのでした。

続く


生きた足跡 その2

皆さんおはようございます。

下の写真は己晴さんが若かった頃、多分30代半ば
船橋サーキットでレースに出ていた時のものです。
車はフェアレディ。
この人は何をやらせても様になる人でした。

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今回のテーマは、「一人の人間が後世に何を残せるか」という話です。
そういう意味では、
己晴さんの計画した「10階建てのビル」とは名実ともに立派なものでした。
唯一つ問題が有りました。
それを作るにおいて、当然数億数十億のお金がかかる。
その資金をどうするのか?
これってサラリーマンが脱サラして喫茶店やら、ラーメン屋などを
開くパターンと似てません? 規模は違うけど本質は同じ。
問題はその資金をどう準備するか。

シーサイドと言えば、それまでは一介のどこにでもある「外車屋」
ただ、たまたま己晴さんの行動力、時代に合った商品の仕入れ
などがうまく噛み合ったからデカい博打を打ってみようかという話になった。

少し遡ると、シーサイドモーターは最初、
横浜の「元町」そこの近くの本牧へ抜けるトンネルの脇に、
3~4台しか置けない露店でスタートしました。
ただ、そこに並べたのが当時珍しかった、
イギリスのスポーツカー、MGや、トライアンフ、ジャガーなどであったので
車好きの客が東京からも来たわけです。

当時のお客様には
ミッキーカーチスさんや、黒沢年雄さんなど。
そこで、そこそこ売り上げを伸ばしたので
売りに出ていた国道1号線沿いの「三ッ沢」という場所に移転しました。
そこは後の「シーサイドモータ」と呼ばれるビルが建った場所です。

当初は更地に車を横に数台並べて、プレハブの事務所
そのままいけば、国道沿いのよくある中古車屋
それが何故いきなり10階建てのビルを建てようと変身したのか?
それは1970年に始まった貿易自由化が有ったから。

つまりそれ以前は何処の国のメーカでも、
新車を輸入しようとしたら、
契約している国内のディーラーに権限があり輸入できなかった。
それを全部取っぱらって、好きなように貿易をしろと、
これは当時、急速に力をつけ、
海外に大量の日本車を輸出する日本国に、
おまえら、輸出するばかりでなく、輸入もどんどんしろと、
そういう圧力があったわけです。

それまで好きなように値段を付けて売っていたディーラーに対し
並行輸入ならもっとコストを下げて安く売れる=数も沢山売れる
己晴さんの頭に閃きがあったのでしょう。

当時、外車屋のオヤジと言えば、外車を扱っているくせに
外国に行ったことも無い、ましてや英語など全く喋れない
これが普通でした。
かたや己晴さんは米軍の軍属相手に商売を繰り返し
「外人、外国に慣れていた」
ここが大きなポイントでした。
なので、シーサイドと言うと初めからイタリアのスポーツカーを
扱っていたと思われがちですが、事実は違います。

実はあのビルの建設資金の頭金は「アメ車の並行輸入」だったのです・
それも殆どが新車のアメ車のスポーティモデル
カマロ、トランザム、コルベットなどなど
これらが地方の車屋に面白いように売れ
私など下っ端の仕事は、保税倉庫から出してきた
それらの車を殆ど何もせず、そのまま九州や東北に送る
フェリーの港に数台連なって運ぶという仕事でした。

結構以外でしょ?
つづく。
プロフィール

Castelauto

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