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カウンタックの存在感、今と昔

皆さんおはようございます。

1975年当時、ランボルギーニ社は経営難に苦しみ、
潤沢な資金力はありませんでした。
元々、
創業者のフェルッチオ
は、
どうしてもスポーツカーメーカーのオーナーになりたいと思ってこの会社を作ったのではなく
本業のトラクターや、エアコンの事業が順調だったので
車のビジネスに手を出したと。
これは本当かどうか分かりませんが、彼へのインタビューや、
当時のイタリアの産業の流れからすると、おおむね当たっているようです。
エンツォのように若いころからレーシングドライバーを目指し
スポーツカーを走らせるのが大好きで、
しかもカーレース、それも頂点のF1 に憧れ
自分の名を課したレースカーを走らせることに強い情熱を持ったのと比べて
フェルッチオはどこかビジネスマン特有のクールさが見えます。

その証拠に自動車メーカーを維持していくことの厄介さ、
大変さが身に染みると、今でいうM&A つまり企業ごと売却する道を選びます。
その低迷期が丁度このカウンタックLP400を生産し始めた頃。
ミウラは量産には向かず、ベルトーネのおかげで
時代を先駆けするボディを身に纏った「カウンタック」 (※海外ではcountach=クンタッシと発音。)
イタリア、ピエモンテ地方の表現で「すげー」とか驚いたときに発する言葉
をなんとか市販車まで作り上げましたが、
とにかく量産車には、とても不向きな整備性の悪さ
ミウラはご存知のように前後のカウルが大きく開き
取り外しも容易

比べてカウンタックは、クラッチ交換でも、エンジンを車体から降ろさずにはできず
それもフレームをバードケージ(鳥の巣)と呼ばれる無数の細いパイプで作ったものだから
エンジンを降ろすのも一苦労
1号車の黒が直ぐにクラッチを滑らせ、修理しなければならなくなったとき
メーカーに問い合わせても、回答が来ない
しかもこのエンジン、ミッションが普通とは逆向きに前方にミッションを
積んでいるため、当時のメカたちは頭を抱えました。
ようやくエンジンを斜めに吊り上げ、その上でボディをスライドさせるという
知恵の輪みたいな回答にたどり着くまで結構な時間がかかりました。

なので思ったほど(ミウラと比べて)販売は伸びず
結局、僅か150台の生産でファーストモデル LP400は幕を閉じました。
フェルッチオの後を継いだ経営陣がなんとか会社の生き延びる道を模索して
派手好みのアメリカ人をターゲットに、デカいウィング、太いタイヤホイール
それに伴うオーバーフェンダー、フロントスポイラーを纏った 400S を
発信させ、次いで排気量を拡大した LP500,
次にようやくエンジンに手を入れ、4バルブ、ダウンドラフトキャブを採用した
LP500 クワトロバルブ を作り上げました。
そして最後は25周年の記念モデルとして、「アニバーサリー」
これがカウンタックの始まりから終わりまで。

私が在籍していたシーサイドは、最初期のLP400を新車で12~13台ほど
400Sを1台(池沢さんに買ってもらった)
これが全部です。
もっとも例のスーパーカーブームが起こると、
子供たちに一番人気だったカウンタックを商売目的で中古車として
ヨーロッパからかなりの台数を沢山の業者が輸入しました。

よく聞かれる質問
「ミウラとカウンタックどちらが速いですか?」
答えはカウンタック。
但し加速が良いわけでなく最高速時の安定性が良いと言う意味。
それも250キロまで。 かたやミウラは死ぬ気で180キロ
加速はミウラの方が全然良い、カウンタックはメチャ遅い
クワトロになって、ようやくマシになる。

「どちらが飽きないか?」
毎日見てる私の立場で言えば
断然ミウラ。
カウンタックは見てると飽きる。 オーナーには悪いけど。

但しこれらは発売当時から40年以上経った今だから言える事
正確には43年前では、何て凄い車が世の中に出現したんだ、、、
と言う驚きのみ。
それこそ「カウンタック!!」
だったのだ。


社会現象にまでなったスーパーカーブーム

皆さんおはようございます。

例のブームの始まりは、皆さんがよくご存じの
池沢さんが描いた「サーキットの狼」に端を発します。
1976年頃、外国製のスポーツカーと言えば
ポルシェが主流で、その他はせいぜいロータス、
アメ車のコルベットもありましたが一部のモノ好きのみ。
つまりイタリア製のスポーツカー
フェラーリ、ランボルギーニ、マセラーティなどは
自動車月刊誌、カーグラフィックなどで見ても
実物など全くお目にかかれない時代。
たまたまシーサイドモーターは、社長「松沢己晴、その兄の美次兄弟」の
先見性?の賜物で、
当時誰も手掛けていなかったそれらを輸入販売しようとしました。
しかも大胆にもランボルギーニ、マセラーティ、二つのメーカーの
日本総代理店を取得と言う偉業?を成し遂げました。
己晴さんは勢いで、フェラーリの代理店をも取ろうとしましたが
当時極東アジア地区の強い権限を持っていた
イギリスの「マラネロコンセショナリー」の代表ホーン大佐が
ランボルギーニと同じくディーラー権を与えるのに異議を唱え実現しませんでした。
まだ、当時は香港の海運保険業が主であった、「コーンズ」が
フェラーリとの代理店契約を所得する数年前の話です。
それだけ松沢兄弟は、新しい物へのチャレンジスピリットがあったと
いう事でしょう。

一方、池澤さんは無類の車好き
サーキットの狼の前作 「嵐三匹」が終了し、次作のアイデアを練っていました。
自身はロータスヨーロッパ、ディノ、トヨタ2000GTと乗りついで、
新車のポルシェ930ターボをミツワにオーダーした頃、
そこで彼は担当の週刊少年ジャンプの編集者に
次作はスポーツカーをメインとした漫画を描いてみたいと申し出ました。
ところが編集部ではそんな漫画は今まで出たためしが無い
連載は無理だとの返答でした。
しかし池沢さんは粘り強く交渉し、ワンクールのみ(約3か月)の承諾を得ました。
その頃です、私が池沢さんと初めて出会ったのは。
1975年の暮れ頃。
知り合いの紹介で、車好きの漫画家がいると。
私は杉並の荻窪にあった彼のアトリエ、といってもアパートの一室に
数台のテーブルを並べた質素な部屋に伺いました。
何故か直ぐに意気投合し、横浜のシーサイドに行くよとの約束を
取り付けました。
そこからです、彼にとってもシーサイドにとっても波瀾万丈の時代が
始まったのは。

続く


人も車も歴史がある。

皆さんおはようございます。

昨日とても珍しい方の来社がありました。
その方は、私がシーサイドモーターに在籍していた時
”カウンタックLP400の新車日本上陸3号車”を買って頂いたYさん
お会いしたのは1980年の時以来38年ぶり。
現在70半ばのYさんは、お元気そうでした。

カウンタックの1号車、ブラックメタリックが日本の土を踏んだのが
1974年の暮れ頃。
2台目は少し間が空いて、翌年の1975年の秋頃に入りました。
この年の10月には今はありませんが、
晴海の国際展示場で輸入車ショーが開かれました。
この時、前年に入りました黒のカウンタックを展示したのですが
それほどの人気は有りませんでした。

この日本1号車、黒のLP400のファーストオーナーは、
後にラスベガスのアラジンホテルを買収した「安田銀二さん」
安田さんは2号車の黄色が入ると、
すぐさま己晴さんと交渉し車を入れ変えました。
この黄色の2号車が翌年の1976年の定例のモーターショーで
大フィーバーを巻き起こす事になるわけです。

3号車のオレンジ色のLP400は1976年の春頃に来たと記憶しています。
この時オーダーを頂いたのは、前年の秋頃、
当時ミウラのSVに乗られていたYさんに、
出たばかりの新型のランボルギーニをご注文頂いたわけです。
ところがランボルギーニから生産が追い付かずと報告があり、納車が遅れ
Yさんに迷惑をかけてはと、通常イタリアのジェノバから船に積むのを
ミラノから航空貨物で運ぶことにしたのです。
当時はまだ成田空港は開港前
従って羽田空港に飛行機は着陸しました。
私と言えば1975年の1年間で営業職として急成長し?
この3号車も自分で売り先を見つけてきたと
かなり自信が付いている頃でした。
当然、私が引き取りを任され
羽田空港の貨物ヤードに入っていたオレンジ色のLP400と対面しました。
1号車がクロメタ、2号車が黄色だったので、
この3号車のオレンジはかなり新鮮に見えました。
私の記憶ではこの頃、メーカーに色のオーダーとかは出来ず
彼らが出来た順に各国にデリバリーしていた様です。
それでたまたま出来たのがこのオレンジだったと。

私は緊張の面持ちでエンジンをかけ、
隣にその時の通関業者の担当を乗せて横浜へ首都高羽田線を走りました。
LP400には、その後もそうでしたが工場デリバリーの時には
いわゆるドアーミラーは付いていません。 
この絵はその時、途中の東神奈川で降りて、保税倉庫の横の岸壁で撮影した時のもの。
今となれば貴重な写真です。
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マフラーカッターの色に注目、新車はメーカーデリバリーの時に
オレンジ色を塗っていた。これは当時の純正「ANSAマフラー」の特徴
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新車のエンジンルーム やはり綺麗
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スピードメーターの積算計は250キロを指していた。
つまり現地でそれくらいの走行テストをしていたという事。
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ステアリングの「ひも」に注意、
これは新車のみ現地のメーカーで付けていたもの。
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この写真の撮影は、当時私の友人だった市ノ瀬というカメラマンが撮影した。
まだデジタルではなく、フィルムの時代。
こうして、この3号車は無事に日本の地を踏んだわけです。

続く




目標のある生き方

皆さんおはようございます。

私が一番嫌いな感情は。。
◎無関心
◎無気力
◎無感動
この3つです。
言うまでもなく、人間は感情で生きている。
もし親しい人が死んだり、病気になっても関心が無い様なら
殆どロボットと同じです。

最近はロボットでさえ、ある種の感情を持つように出来るとか
例えば、喜び、怒り、悲しみなど
仮にアンドロイド型のヒューマンロボットが完成して、
人工知能が喜怒哀楽の感情をうまくコントロールできるのであれば
程度の悪い人間よりもはるかに優れた? 次世代の人間が出来るはず
私は昔から「SF」 小説や映画が好きで
特にスタンリーキューブリック監督の不朽の名作
「2001年宇宙の旅」
この映画に出てくるコンピューター「ハル」と船長との会話の中に
人類の未来が投影されていると言っても過言で無い。
もし見たことない人がいたら、必ず見るべきもの。

話は戻って現代の我々人間達。
勿論、私も含めて
ほぼ毎日仕事に追われ、はたまた煩悩にさいなまれ
あるいは生活に追われ
よんどころのない日々を送っている人が大半だろう。
だから、よほどの事が無ければ
◎無関心
◎無気力
◎無感動
この3点セットが当たり前だって?
もしそう思っているなら、はっきりと言おう
生きてる価値が無い
タチの悪いことに、
この3点セットの常連は、自分で自身の事に気付いてない、
もしくは見ないでおこう 
そうしている連中が殆どだ。
何故?
この3点セットの「対極」を保持するにはかなりなエネルギーが必要だからだ。

どちらが彩ある人生か?
人として深みのある生き方か?
言うまでもないだろう。

私の場合、幸い多くの人に関心を持たれる仕事をしている。
簡単に言えば趣味の対象の仕事だから。
だから、なおさら私をとりまく人達に対しては、
☆感動を与えたい
☆好奇心を膨らませたい
☆生きる目標を与えたい

私は宗教の伝道師ではないけれど、
自分の出来る範囲で私の近くに来る人に
「夢と希望を与えたい」
そう願う訳だ。
もし自分の人生に少しでも「夢や目標」
これらを持ちたい人がいるなら、いつでもウェルカム!
たかが古いスポーツカーではあるが、
子供の頃、夢見た対象が其処にある。

このブログの前回、ミウラを見るかと尋ねたよね?
一人も来ない、これがよく現代を表している。
つまり大半がさっきの3点セットの人間か?
そうだとしたら本当に情けない話。
死んだ方がまし
私にそう言われてムカつくなら行動してみろと言いたい。
キャステルは横浜駅から2個目の関内駅から歩いて5分
まさか不便だから行きたくないとは言わせないぜ。

世界最高水準のミウラ

皆さんおはようございます。

私が扱うビンテージカーについて。。
「どれ位が世界レベル?或いは世界のコンクールレベルですか?」と、よく質問されます。
残念ですが日本のそれはレベルが低くて除外です。
諺で「井の中の蛙」というのがあります。
文字道理、井戸の中に暮らすカエルは狭くて丸い水の上に浮かんだ石ころだけが
自分の住む世界
周りに生えているコケや、時々上から降りてくる蚊やハエとは友達でも
それ以上の知識はありません。
上を見上げて丸い空の下に広がる景色は知るすべがない。

これをごく普通の日本人、それも外車を扱う車屋に置き換えてみて下さい。
アメ車はまだ敷居が低い
ロサンゼルスなど日系人も多いし、無数に車屋もある
でもヨーロッパではどう?
イギリスは英語だけど、イタリアは?
私は今まで何十回もイタリアの地方も含めて車屋に行きましたが
英語が喋れる人は殆ど皆無。
ドイツ、ベルギー、フランスの車屋は英語が喋れる人は多い
けれど移動の時や食事の時など面倒な事が多々
それを知ってかどうか私が知る限り、
日本の車屋で平気でヨーロッパを周れる奴はごく少数。
だから、数少ない日本にある車だけを見て、良いの悪いのと言う
井の中の蛙 と言うのがピッタリでしょう。

かく言う私も1974年にシーサイドモーターに入社して、
身近にイタリアのランボルギーニや、マセラーティを見てきたのに
在職中、一度もヨーロッパへは行かなかった、いや行けなかった。
海外に行ったのは、優秀セールスの表彰で当時のシトロエンのディーラーだった
西部自販のお供で香港、マカオに行っただけ。
これが私の生まれて初めての海外旅行。
2番目は己晴さんの提案で社員旅行として連れて行って貰ったフィリピン
つまりアジアだけ。
だからシーサイドが潰れて数年後、
初めて訪れたドイツ、スイス、はたまたアメリカには
正直、かなりのカルチャーショックを受けた。
カエルが井戸を飛び出して大草原を見た様なものだ。

それから38年が過ぎ、気付いたら成田、最近は羽田から
海外にとんだ回数、実に120回
行先はヨーロッパが6割、アメリカが4割くらい
ありとあらゆる車屋、レストアガレージ、個人宅への訪問
勿論、各地で行われるコンクール、オークション、カーショーなどを
見てきた。
当社が castelauto international
と書くのはそれが所以。
なので
「どれくらいが世界のトップレベル」 「どのくらいが世界のコンクールレベル」
この質問には、ハッキリと答えることが出来る。
これが出来るのは日本の車屋の中で私だけ。
そう断言する。
これは自慢ではなく、普通に1980年から続けて今まで38年間やってきた
その積み重ねが今に至るというだけ。
お金に余裕が無かったブローカー時代から通算120回
経費が一回50万として×120 で幾ら?
6000万だ。
なので私の言葉の裏には6000万ものお金がぶら下がっていると言う事。
それをキャステルに訪問して、おせんべいの手土産で話を聞けるとしたら
安くない?

居酒屋で友人同士でダベるのも良いが、
本当に価値のある話も聞くべきだろう。
いつでも歓迎だ。
最近体重が気になるので、甘い物よりせんべいの方が良い。

さて今日の本題の歴史に残る名車 ミウラ
この車は文字道理、私が1から100まで手掛けたパーフェクトな車
言うまでもなく、世界トップレベル、世界のコンクールで賞を取れるレベル
これが現在手元にある。
勿論値段は相当高い。
但し言っておくが、この手の車は世界相場になる。
間近で見たい人はコンタクトしてくれ。
045-663-4660 フロント しのもとまで。

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Castelauto

Author:Castelauto
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