親父の時代

みなさん、おはようございます。
今日まで、フィリピンの”暴言”大統領
ドゥテルテ氏が来日しています。
彼は今や国内にて圧倒的な人気を誇り、まるで独裁者のようです。

何故今日はそれを取り上げるのか?
それは私にとってフィリピンは、
何故かいろいろな意味で関係が深いからです。

まず1番目、
私の親父は大阪で暮らしていた22歳の頃、赤紙で徴収され
始め中国本土を転戦し、最後はフィリピンで終戦を迎えました。
その間、10年間
陸軍でしたが最後は軍曹のくらい。
つまり20代の殆どを戦場で暮らしたわけです。

なので、私が子供の頃大阪の長屋に住んでいたのですが
毎日決まった時間に会社から戻ってくると
小さなちゃぶ台で家族で食事 (私はその頃にしては珍しい一人っ子)
晩酌のビールが好きで酔いが回ると決まって戦時中の話が始まりました。
つまり親父にとって自分の青春時代がそのまま戦争体験だったわけです。
その時よく聞かされたのが、
敗戦まじかでフィリピンのミンダナオ島のジャングルで
苦しい生活を送っていた時の事。

圧倒的なアメリカ軍の威力の前に、日本軍は敗戦を重ね
ゲリラ的な戦いをジャングルをベースに行うしか無かったわけです。
兵器の補填もない、食料もない、本当にないないずくしの極限の状態で
精神の弱い人から次ぎ次と自殺を図ったそうです。
つまり戦闘で死ぬより、自殺した人数のほうが多かったと親父は語りました。

ついに食料が途絶えると、ジャングルをさまよい
食べれそうな草は勿論、ヘビ、トカゲなど食えるものは何でも。
或るとき小川に水を汲みに行くと、野戦病院の看護婦が
兵隊さん、僅かでも良いから「塩」を分けて頂けませんか?
と言われたそうです。
そう、その頃は草などを無理やり食べる為にどうしても塩が味付けに
必要だったわけです。
でも親父はそれを分けると自分の分が無くなり
自分も餓死すると断った、
今でもそれを思うと後悔すると半分泣きました。

その頃、首都マニラでは
日本軍の守備隊とアメリカ軍とが壮絶な戦いを行っていました。
つまり市街戦、当然そこに住んでいたフィリピンの人たちも戦闘に巻き込まれ
亡くなった方々が10万人、
日本軍の軍属が2万人、合わせて12万人の人が亡くなりました。

戦後、普通ならフィリピンの人たちは日本軍、日本人を憎みますよね?
俺たちの国で戦争なんかしやがって、甚大な被害を及ぼしてと、
ところが昨日の新聞の見出し、
ドゥテルテ大統領いわく、「日本には感謝している」 と。
何故? 勿論戦後復興の際、日本はフィリピンに多額の賠償金を支払い
それを最近まで続けている、
もう一つの大きな理由は彼らの宗教「カトリック」があるからです。
大体90%がカトリック信者のこの国は
過ちを犯した人に対して「許し」を与える事が神様の思し召し。
なので中国、韓国のように執念深い「恨み」を持たないのです。

親父は敗戦を知ると、部下とともに投降し捕虜になりました。
マニラの刑務所に入れられたわけですが
そこはまるで天国のようだったと話しました。
食事は毎日朝昼晩と3回、合間には黒人のアメリカ兵が仲良くなると
チョコレートや、ガムなどをくれる、
靴もキャンバスの真新しいものを支給され、以前のボロボロの軍靴とは大違い
だったと話しておりました。

そのうちに戦争犯罪人の裁判がマニラの法廷で開かれるようになり
かなり沢山の日本兵が戦時中の残虐行為などで起訴されました。
ただ、現地の住民も顔などうろ覚え、
法廷で多分こいつだった
みたいな証言で死刑が言い渡されたそうです。
幸い親父はそのような網には引っかからずやがて日本へ戻れる日が来ました。

関係のその2は次回に。
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Castelauto

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