
昨日のサッカーの試合、「コスタリカ戦」
応援するのが馬鹿らしくなるほど情けない試合だった。
メンバーの人選もさることながら、
一番ガッカリしたのは「必死さ」の欠如だろう。
「ワールドカップ」という国際試合。
そこに出るだけでも名誉な事だ。
であれば、
その期待に応えることが
選手達に課せられた「義務」である事は言うまでもない。
仮に90分、全ての選手が己のチカラを出し切り、
試合が終わったら、ぶっ倒れて起きあがれない程のプレーをしたのであれば
結果、相手に負けたとしても誰も文句を言わないだろう。
「ところが実際はどうだ?」
シュートを打って、ゴールを反れたら「へらへら笑う」
サッカーの事は分からないが、
とろとろボールの行方を目で追ってるだけの選手。
見ていて「練習試合か?」と感じた。
つまり選手と監督が一丸となり、
「日本という国を背負う気概が無い」
これでは
「勝負を舐めてる」と言われても反論できないだろう。
それとこの日本チーム
「一体、誰がキャプテンなの?」
つまりキャプテン不在のどんぐりの背比べチーム。
そんな風に見える。
これはサッカーに限らず、日本という国全体がそうだ。
田中角栄の様な飛び抜けたリーダーは存在せず、
政治家は官僚の作った作文を棒読みしているだけ。
つまり「個人の個が見えない」
身近な事で言えば、日本に存在する無数の企業や会社
そこのリーダーであるべき社長の肩書を持つ人物、
その人物像が表に出るのは「不祥事を起こした時だけ」
普段はいつも会社という集団の中に埋もれて
むしろ世間には顔を隠そうとする。
それが今の日本の典型的な「保守主義」だ。
私の同業である各地に点在する大小の「車屋」
そこの広告を見ても、「社長の顔やプロフィールは出てるか?」
殆どゼロだろう。
出すぎている位、
表に顔出ししているのはこの私、キャステルオートだけ。
その理由は言うまでもないが、
私のキャリアがこの会社の基本であり、
レストアの考え方、その品質に私が責任を持つからだ。
だからキャステルで買った車が気に入らないなら私に文句を言えば良い。
株式会社であろうが有限会社であろうが、
其処を運営しているのはコンピューターでは無く個々の人間の集団。
其処には必ずリーダーがいるはず。
だから強いリーダーがいれば、その集団や会社は評価されるし伸びる。
表に顔も出さないリーダーの組織は「弱いし衰退する」
今回の日本チーム
私は初めて監督である守保氏が昔選手であったと知ったのだが、
であれば、
「何故もっと彼のサッカーに対する考え方や取り組み方、それらを表に出さないの?」
それが日本チームの指針になる訳だろう。
それとも「彼はリーダーとして能力が無いのか?」
そんな疑問を感じさせる試合だった。
話は変わって、
私の応援する横浜DeNaベイスターズの三浦監督。
彼は今年は善戦したが、最後はヤクルトにチカラ負けした。
けれど試合後のインタビューで、
彼は負けても責任は自分だと言い続けた。
「敗戦の将、多くを語らず」と言うが、
彼は典型的な例だ。
しかし、そんな後姿を見て後押しを遣う選手も多い事だろう。
「来年が期待できる」
これを見ても分かる様に、
いかに個人であっても責任感を持ち、
リーダーはその数十倍、数百倍も責任は重いという事だ。
第二次大戦最後の時、
天皇を迎えた御前会議で、昭和天皇が終戦の勅令を出された。
その場にいた時の陸軍大臣、阿南氏は自宅に戻ると黙って切腹したという。
それが彼の責任の取り方であった。
我々に、それを「時代錯誤」と軽く言える資格があるのか?
私は無いと思う。
2022年11月28日
サッカーワールドカップを見ての感想