鴨 長明 鎌倉時代の歌人
この言葉は「方丈記」の中にある。
これを今の20代の男女に言っても、たぶん意味は伝わらないだろう。
「けれど人生50年も生きてきたらどうだ?」
その中には紆余曲折、
楽しい事もあれば、苦しい事もあっただろう。
逆に苦しい事ばかりで、僅かに楽しい事があったかもしれない。
それが人が生まれ、死ぬまでの「性(さが)」だ。
振りかえってみれば、
我々は幼い頃から幾度も、何らかの「選択」があった事に気づく。
どんな家庭、どんな両親の元でこの世に生を授かるか。
これに選択肢は無い。
もしかしたら、
私も貴方も、アフリカの広大なサバンナの部族に生まれていたかもしれない。
でも現実は、豊かで平和な(戦時中は違った)日本に生まれた。
小、中学生と特に自意識もなく大きくなり、最初のハードルが高校受験だ。
「その時、貴方はどれくらい将来の自分を見据えての選択だった?」
高校の先に見える大学という、もう一段も二段も高い壁を考えたか?
あるいは実家が農家だから、高校はとりあえず行っとくべきか?
「中学を卒業する15歳」
ここで人生初めての選択がある。
大事なのは、「勉学とは何の為にあるのか、もしくはする必要があるのか」
これを洞察することが出来た奴は、
この先、周りより抜き出た一歩を踏み出すことが出来る。
けれど大半の15歳は、
「20歳くらいまで学生として過す方が楽だから」
と「学生」という身分を維持しようとする。
いわゆる「モラトリアム世代」社会から保護された世代という意味。
よく言う「学生さんだから」もしくは「学割」
けれど人生という奴は、立ち止まることが難しい。
大半の若者が三流大学を出て、今度は社会の壁にぶつかる。
いよいよ、ここからは実力次第で人生の本番だ。
「その時を振り返り、貴方はどうした?」
私の場合、子供の頃から車好きで、
職業として自動車関係、それも地味に修理では無く脚光を浴びそうなセールス。
しかも、ありきたりの日本車の販売では無く、「外車」のセールス。
そう、1970年代という時代は、
この「外車」というワードがもの凄く輝いていたのだ。
例えて言えば、
嫁さんを黒髪のずんぐりむっくりの地味な日本女にするか、
金髪で背が高くスタイル抜群の「外人ネーチャン」にするか位の違いだ。
つまり無いものに対する憧れ。
だから東北出身の歌手「千昌夫」だって、
北国の春がヒットして嫁さんに選んだのは金髪のシェパードさんだった。
そういう訳で、
本当に1970年、
今から50年ほど前は、この日本には「外車」は殆ど存在せず、
ましてや「外車のスポーツカー」など、めったにお目にかかれるものではなかった。
まぁポルシェはミツワという代理店がしっかりしていたので少しはあったが、
その他は、ロータス、アルファロメオなど極少数。
「フェラーリ? ランボルギーニ?」
そんなの日本に存在するの?
これが実情だった。
当時は「外車=アメリカ車」これが定番。
なので、何も分らない私は「とりあえず外車のディーラーを受けてみるか」と
東京三田にあったフォードの代理店 近鉄モーターの入社試験を受けた。
結果は見事に不合格。
「あんたは営業向きでは無いね」と担当の面接官に言われた。
それから50年後、私は営業一筋でやって来れたが。
それで、仕方なくバイトに明け暮れていたある日、
愛読していた「カーグラフィック」の「シーサイドモーター営業募集」の広告が眼に入ったのだ。
名前は洒落ているし、
しかも、「ランボルギーニ、マセラーティの日本総代理店?」
「すげーな、よぉーし、ダメ元で行ってみるか、、、」
これが私の新たな人生のスタート。
つまりチャンスは、山でマツタケを見つける時の様に
注意を払っていれば発見出来る。
問題は自意識をどの程度、維持するかだ。
「自分は何をやりたい、どうしたいのか」
社会人にとっては、直接それが生きて行くための収入に結びつく。
それだけ大事だという事だ。
その後のパート2に続く

1978年頃 308GTBファイバーモデルの新車と。