皆さん おはようございます。
今日はスーパーカーの歴史シリーズで表に出ない車の解説です。
というのも、
私が当時勤めていた「シーサイドモーター」は、
イタリアの「ランボルギーニ」「マセラティ」「デトマソ」
この3つのメーカーと日本総代理店契約を結んでおりました。
その時期は新社屋建設中の1973年頃。
まさかその前年、
平屋に車を並べていた頃ではディーラーとは到底名乗れません。
おそらくビル建設と同時に、一躍事業の幅を拡げ躍進を考えたのでしょう。
何事も前進するのは良いし、
会社の規模を拡大するのも悪い事ではありませんが、
最近のBM社のように無理をすると必ず後々多大な影響が出て来ます。
シーサイドの場合は全て「楽観的」な計画。
その頃、普通の中古車屋では考えられない「デカいビル」を建て(10階建て)
1階はショールーム、2階は工場、3階はガレージと理想を絵に描いたような作り。



上の写真は倒産して数年後のもの。


しかし、その建設費用は、大半が銀行からの借金。
その当時の三和銀行、今のUFJですが、
私は毎日新入りの時、
手形やら何やらの書類を持たされて横浜駅前の支店に走りました。
おそらく社長や会長の松澤兄弟の頭には、
その頃、誰も手を付けてなかったイタリアの高級スポーツカー
ランボルギーニやマセラティ、
それらを立派なショールームに並べれば、
車好きはアッと驚き買いに来るだろう。
ビルの建設費用も、
7階から10階迄を分譲マンションにして売れば利益も出るはず。
全てが「甘い見通し」でした。
ところが現実はやはり厳しいもので、
丁度、建設真っ只中にオイルショックがあり建設資材が高騰。
現代の石油高騰と同じ構図で景気は急激に悪くなり、分譲マンションも売れ残り。
初めから計画が躓いたのでした。
その詳しい経緯については、当時、会社の中核であった、
松澤兄弟、(会長と社長)それと馬場専務、
彼等全員が亡くなり、私に伝える事をしなかった為不明です。
最後に残った馬場専務も、私がその話を向けると口を閉ざしましたので。
しかし現実は、私が入社した1974年春頃から、
イタリアサイドから半強制的に「貴方方ディーラーとしての義務」と言わんばかりに
ドンドン彼等の作る「新車」を送ってきました。
ランボルギーニで言えば、
「エスパーダ」「ヤラマ」「ウラッコ」「カウンタック」
マセラティは、「ボラ」「メラック」「カムシン」「インディ」
分かると思いますが、その頃まだ日本は、
イタリアのスポーツカーマーケットは黎明期。
つまり誰も知らない様な車が大半だった訳です。
しかし立派なビルを作り、綺麗なイタリアンタイルを貼ったショールームに
それらを入れた以上、販売する義務が生じるのは当たり前。
何故なら当時は、LCという銀行決済で輸入をしていましたが、
簡単に言えば、銀行から借金して車を買っている様なもの。
ここらへんが、その6年後に会社が倒産する一つの要因であったと思います。
つまり自己資金が殆ど無かったのです。
ただ、私の立場で言えば、1974年10月に盛大なオープニングセレモニーが開催され、
(私はやってくるお客さんの車の整理係)
念願のセールスの仕事が出来るかと思いきや、
お前は2階の工場で部品の管理をやれと。
何度もお願いして、
下のショールームに下ろしてもらったのは翌年の3月頃。
そこでようやく車に触れて、乗れる立場になった訳です。
次回はその中で触れたマセラティの新車
「ボラ」「メラック」「カムシン」
そして古くは、「ギブリ」「インディ」等をお話します。

上の写真は当時、在日米軍の家族用のキャンプがあった横浜の本牧。
自由に入れたので、私と私の友人、市瀬カメラマンとで撮影した。
何故かマセラティ社は、
欧州仕様ではなく不細工なバンパーが付いたUS仕様を新車として送って来た。
いわゆる5マイルバンパーと言う奴。


これがオリジナルのデザインのフロントグリル。
やはり天才ジウジアーロだよね。カッコ良い。

この車の特徴は、ルーフとサイドシルにステンレスを使用。
イメージは「昆虫」の様だ。
次回はドライブフィールなど詳しく解説する。