皆さんおはようございます。
前回私とフィリピンとの縁について書きました。
極論ですが、私の親父がもし先の大戦で赴任していた
フィリピンで戦死していたら、私はこの世に産まれなかったわけです。
運命とはそのようなものです。
さて、そんなフィリピンに始めて訪れたのは
私がシーサイドモーターに入社して4年ほど過ぎた頃
1978年です。
例のスーパーカーブームがはじけて沈滞ムードが漂う中
社長、松沢己晴の提案でフィリピン旅行が決まりました。
何故フィリピンだったか?
それは既に己晴さんの友人数人が日本を離れかの地で暮らしていたからです。
その頃からすでに物価が安くて住みやすいというイメージは定着しておりました。
メンバーは己晴さんと私と工場から一人選ばれ計3人、
それと当時お客で仲の良かった井上印刷の社長も同行しました。
私も前回香港に優秀営業賞の褒美で他のディーラーの旅行に参加したのに
次いで海外は2度めでした。
4時間飛行機に乗って着いたフィリピンの首都マニラは、タラップを降りた瞬間
もわっとむせかえるような熱気に包まれた、正に熱帯でした。
その時の記憶はあまり定かでは無いのですが、
やたらと人が多いのと、途中スコールが降るとたちまち道路が冠水して
深さ30センチくらいの水たまりを人々が平気で歩いている
レストランで食事をしていたら突然停電してローソクでしのいだとか
その割にフィリピンの人たちが、常に明るく貧しさを感じさせない国民性
それに私も己晴さんも感心しました。
己晴さんの「俺は将来引退したらこの国に住もうかな」
この一言が後に現実になったわけです。
シーサイドが潰れたのは、その2年後の事でした。
私は日本に帰ってからしばらくして実家に行き、
フィリピンの印象を親父に話ました。
ところが親父は少しも楽しそうな顔をせず、むしろそんな話題を避けたいようでした。
やはり「戦争が目的で行った国」 それと比較して「観光が目的」
両者には決定的な違いがあると後で気が付きました。
事実、もう一度フィリピンに行きたいかと私が訪ねると
親父は2度と行きたくないと即座に答えました。
やはり負の記憶は消せないとその時分かりました。
さて、再び彼の地を訪れたのはシーサイドが1980年の2月に倒産して
次の年、1981年でした。
その頃にはそれぞれが自分の道を歩み始め
私はブローカー、己晴さんはマニラから飛行機で30分ほど離れた
ビラック群のカタアンドネスという辺鄙な場所の其処に点在する
一周1時間くらいの小さな島を買い取り
彼曰く、「大人のリゾート」を作り始めました。
島の買収、レストランのコック係、メイド5~6人
など約1000万かかったのですが、無一文になった己晴さんは
友人たちを訪ね歩き、一人50万円×20人で=1000万を作り出しました。
その中には倒産したときに迷惑をかけた人も含まれていましたが(借金をしていた)
お前がやるなら応援するよと気前よく金をくれたそうです。
其処らが己晴さんの人徳なのでしょう。
事実彼の島を訪ねた時、彼は島の王様のような優雅な生活を送っていました。
当時、18歳くらいのメイドを一人雇うのに毎月3000円(おこずかいみたいなもの)
コックでも1万円です。
日本から来る友人に「滞在費」として5万円も巻き上げれば
充分生活していけるわけです。
但しその島にマニラからたどり着くには並大抵のことではありませんでした。
まず、オンボロのプロペラ飛行機で30分ほど飛び、
着いたおおよそ空港とは呼べないようなところで、少し休憩して
再び20分くらい飛んだ、更に小さいビラックの空港に着くと、
真っ黒に日焼けした己晴さんがニコニコして迎えてくれました。
そこから島まではトラックを改造した幌つきの車の屋根に大きな
氷を買い込み、棕櫚(しゅろ)で包んで乗せました。
己晴さんにこの氷をどうするのと聞くと、俺の好きなバーボンに入れるんだと
言いました。
島には電機は勿論、ガスも水道も無いからです。
つづきます。