生きた足跡 その2

皆さんおはようございます。

下の写真は己晴さんが若かった頃、多分30代半ば
船橋サーキットでレースに出ていた時のものです。
車はフェアレディ。
この人は何をやらせても様になる人でした。

miharu-1.jpg

今回のテーマは、「一人の人間が後世に何を残せるか」という話です。
そういう意味では、
己晴さんの計画した「10階建てのビル」とは名実ともに立派なものでした。
唯一つ問題が有りました。
それを作るにおいて、当然数億数十億のお金がかかる。
その資金をどうするのか?
これってサラリーマンが脱サラして喫茶店やら、ラーメン屋などを
開くパターンと似てません? 規模は違うけど本質は同じ。
問題はその資金をどう準備するか。

シーサイドと言えば、それまでは一介のどこにでもある「外車屋」
ただ、たまたま己晴さんの行動力、時代に合った商品の仕入れ
などがうまく噛み合ったからデカい博打を打ってみようかという話になった。

少し遡ると、シーサイドモーターは最初、
横浜の「元町」そこの近くの本牧へ抜けるトンネルの脇に、
3~4台しか置けない露店でスタートしました。
ただ、そこに並べたのが当時珍しかった、
イギリスのスポーツカー、MGや、トライアンフ、ジャガーなどであったので
車好きの客が東京からも来たわけです。

当時のお客様には
ミッキーカーチスさんや、黒沢年雄さんなど。
そこで、そこそこ売り上げを伸ばしたので
売りに出ていた国道1号線沿いの「三ッ沢」という場所に移転しました。
そこは後の「シーサイドモータ」と呼ばれるビルが建った場所です。

当初は更地に車を横に数台並べて、プレハブの事務所
そのままいけば、国道沿いのよくある中古車屋
それが何故いきなり10階建てのビルを建てようと変身したのか?
それは1970年に始まった貿易自由化が有ったから。

つまりそれ以前は何処の国のメーカでも、
新車を輸入しようとしたら、
契約している国内のディーラーに権限があり輸入できなかった。
それを全部取っぱらって、好きなように貿易をしろと、
これは当時、急速に力をつけ、
海外に大量の日本車を輸出する日本国に、
おまえら、輸出するばかりでなく、輸入もどんどんしろと、
そういう圧力があったわけです。

それまで好きなように値段を付けて売っていたディーラーに対し
並行輸入ならもっとコストを下げて安く売れる=数も沢山売れる
己晴さんの頭に閃きがあったのでしょう。

当時、外車屋のオヤジと言えば、外車を扱っているくせに
外国に行ったことも無い、ましてや英語など全く喋れない
これが普通でした。
かたや己晴さんは米軍の軍属相手に商売を繰り返し
「外人、外国に慣れていた」
ここが大きなポイントでした。
なので、シーサイドと言うと初めからイタリアのスポーツカーを
扱っていたと思われがちですが、事実は違います。

実はあのビルの建設資金の頭金は「アメ車の並行輸入」だったのです・
それも殆どが新車のアメ車のスポーティモデル
カマロ、トランザム、コルベットなどなど
これらが地方の車屋に面白いように売れ
私など下っ端の仕事は、保税倉庫から出してきた
それらの車を殆ど何もせず、そのまま九州や東北に送る
フェリーの港に数台連なって運ぶという仕事でした。

結構以外でしょ?
つづく。
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