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松沢己晴の人生

皆さんおはようございます。

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私の人生で最も影響を受け、唯一尊敬できる男
それは、シーサイドモーターの社長だった「松沢己晴」です。
彼は昭和10年生まれで、今生きていたら83歳。
残念ながら、1994年、59歳の若さでフィリピンで亡くなりました。
自分の新天地を求めて、フィリピンの小さな島を購入し
島の王様として生きたのが、
シーサイドが潰れた1980年の翌年から12年余り
まだまだ島での生活をエンジョイし、余生を送りたかったと思います。

最初のレーシングスーツの写真は、千葉県船橋市のレジャーセンターの
横に有った「船橋サーキット」でのワンショット。
このサーキットは小さいコースながらトリッキーなコースレイアウトで
数々の名勝負を産みました。
当時ここを走っていたのは、生澤徹さんをはじめ、浮谷東次郎さん
ワークスのドライバーたち。
己晴さんは、ここでのレースを通じて、沢山の著名人達と知り合ったと言います。
何しろこの頃、車のレースなどは超金持ちしか出来ない事だったからです。
それだけ彼は時代の先を行く、先見の妙と度胸があったのでしょう。

私がシーサイドの門を叩いて、入社したのが1974年の4月
その時、己晴さんはまだ38歳の若さ。
それでもランボルギーニとマセラーティの正規代理店を取り
それにふさわしい自社ビルを建てる(10階建て)という
かなりの冒険をしようとしている時でした。
私が面接に赴いたのは、今も残るビルから戸塚の方に2キロくらい
国道を下った場所。
そこには倉庫があり、その横に2階建ての木造の事務所がありました。

「何故面接を受けたかって?」
航空高専をなんとか卒業したものの、
2回も落第していた私には、まともな就職先は無理。
なので、卒業前からアルバイト三昧
唯一の楽しみは、3畳一間の風呂無しアパートで、
休みの日に見る「カーグラフィック」という月刊誌
ぺらぺらとページをめくっていたら、白黒の広告でしたが
カッコよさげなビルのイラストとともに、

ランボルギーニ マセラーティ 日本総代理店
シーサイドモーター
営業社員若干名募集

と書いてある。
この頃、外車の知識は殆どなし
世間も外車と言えば、フォード、クライスラーなどのアメ車
東京の街中でも、たまにポルシェが走っているのを見るくらいで
フェラーリとかランボルギーニなど実物を見た事は一度もありませんでした。
好奇心が人一倍強い私は、ダメ元でもいいやと、
近くの公衆電話からダイヤルしました。
すると、電話に出た受付のおばさんみたいな人が
担当者と代わるからと言って
電話口に出たのがその後、私の師匠になる樋口営業課長でした。

彼はちょっと面倒くさそうに、「あぁ、そうしたら明日にでも面接に来いよ」
次の日、その頃住んでいた杉並のアパートから電車を乗り継ぎ
1時間半もかけて見つけたのは。。
おおよそ外車のディーラーとは、
とても思えない国道沿いの旧い倉庫のような事務所でした。

ただ私は丁度、一年前の事を記憶しておりました。
学生仲間と小さなホンダの軽自動車で伊豆の海に遊びに行く途中
お金を浮かせるため、高速道路ではなく国道を走っていたら
横浜を通る時、その車は無造作に道沿いに置いてありました。
「ランボルギーニ ヤラマ(JARAMA)」 です。
今まで見たことも無いデザインのそのシルバーの車は、
一瞬で私を引きつけました。 マングスタの時と同じです。

仲間にちょっと待っててくれと伝え、
直ぐに車を歩道に乗り上げ停めると、すぐさま走って見に行きました。
丁度その場所が面接に行ったシーサイドだったのです。
樋口さんは、一見ホストと間違うくらいのアカ抜けた男でした。
痩せていて、身長も高く、なにより小顔で芸能人みたいな感じ
それまで私の人生において、その様な人とは出会ったことが無かったので
「やはり外車の営業マンたるもの、こうでなければ通用しないのか」
そんな風に思いました。

続く






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