明日ありと思う心の仇桜
これは親鸞聖人が述べた言葉とされる
今日、桜の花が綺麗に咲いていたとしても
夜半に風が吹き、明日には散ってしまうかもしれない。
つまり今日できる事は今日の内に行えと言う意味
これを自分達に置き換えて考えてみれば、
今日、私達は生きている。たまたま元気かもしれない。
しかしそれは「たまたま」という偶然によって生かされている。
そう考えるべき。
今、問題になっている 「新型ウイルス」
感染した人は「たまたま「偶然」うつったのか?
そして運悪く、免疫不全で亡くなる人もいる。
こうなると「偶然ではなく」 その人にとってそうなることが 「必然となる」
つまり運命だ。
当たり前だが人間は運命には逆らえない。
例えば、明日乗る予定の飛行機便
その飛行機が墜落して全員死亡
貴方はそれを未然に予測できるか?
それが人知を超えた運命だ。
我々は常日頃、毎日のルーティンに追われ、
前に踏み出す一歩を当たり前の様に感じている。
自分の脚を目の前の地面に差し出せば前に進めると。
しかし、それは解剖学的には非常に複雑な動作
例えば、よくある脳梗塞。
それを患った人は、身体は元気なのに以前の様にスタスタと歩けるか?
杖をつく、あるいは最悪寝たきり
桜の花ではないが、元気に咲いていた頃には戻れない。
それが我々人間という動物が抱える、避けては通れない「必然だ」
置き換えれば「運命」
なので私はこう提案する。
新宿でも澁谷でも良い
マスクをして携帯用の除菌スプレーをポケットに入れ
手洗いは欠かさず街を歩けと。
その上でウイルスに感染する奴は 「運の悪い人」
何事もなく自宅に帰る人は 「運の良い人」
簡単な「運試し」ではないか?
何故そんなことをするのか理由は?
自分の人生における「運を」再考しろという事。
これを行って、大多数の人が運の良い人になるだろう。
けれど、それで満足してはいけない。
その運をどのように活用するのか、あるいは他の人に分け与えるのか
それを思考しなくては意味が無い。
賢い人なら私の言う意味が分かるだろう。
一番最低なのは、嵐が頭の上を通り過ぎるのを何もせず、
じっと待ち竦む(すくむ) 態度だ。
これではいつまで経っても、どんな事が世の中に起きても
「他人事」
これでは人としての進歩は得られない。
テレビの報道番組のいかにも物知り顔したニュースキャスターや評論家達
テレビ局という隔離された場所で勝手なことをしゃべるのは誰でも出来る。
外に出て、自分たちが出来ることは何か?
それを具体的に示し、自らが見本を示さねば
視聴者はタレントが毎日画面に出てギャラ稼いでいる
それ位しか評価しないだろう。
良い運は天からの授かりものではなく、
自ら勝ち取るもの。
それも明日ではなく今日出来ることを今日やる。
その積み重ねが本当の「運の良い人」に繋がる。
なので車を買いたいなら明日ではなく、今日買うアクションを起こしてくれ。
俺は待ってるぜ (石原裕次郎 風)