皆さんおはようございます。
ようやく酷暑の8月も終わります。
9月になっても世の中不安なことだらけですが。
世界中のコロナ蔓延も中々終わりそうに無いし(私は2回のワクチン接種を済ませたが)
アフガン情勢も予断を許さない状況だ。
避難民の映像を見る度に、つくづく平和な日本に暮らせる幸せを感じる。
そういう世界情勢でありながら、
世界の「余っている金」は確実に存在し、
そんな貧しい人々とは無縁の世界で縦横無尽に動き廻る。
安定資産と言われるゴールドしかり、
世界の名だたる「名画」もしかり。
ここ20年前からは、そいつらがヴィンテージスポーツカーにも目を向けはじめた。
毎年の様に車もデジタル化が進み、一昔前とは全く異なる仕様デザインになっている。
その点、1960~70年代のスポーツカーは作りが単純?
しかも、それぞれに当時の優れた才能があった「人間のデザイナー」が存在した
この車の場合、ベルト―ネの ガンディーニ (他にもミウラなど)
ピニンファリーナの フィオラバンティ (ディノ、308 288GTO F40など)
言わずと知れた、ジウジアーロ
そして「人間の設計者」が存在したおかげで歴史的価値が色褪せない。
そうなると、先の金余りインベストグループ達は、
競って「投資対象として」それらの車達に莫大な金を注ぎ込む。
一番簡単で見やすいのが「伝統のあるサザビーズなどのオークション」
投資家達は車の専門家では無いから「状態は分らない」
だからオークション会社の「鑑定する」レポートを鵜呑みにして信用する。
それは我々が絵画の価値や信憑性などが全く分らないのと似ている。
結果、競り落とされた車はそのまま暗い倉庫へと直行する。
持って生まれたスポーツカーとしての存在意義も無視されて。
もし仮に車に意思があるならば、
「俺は投資の対象としてこの世に出てきた訳では無い」
「長く停止状態でエンジンも始動しないままにしてたら不満が爆発するぜ!」
そう言うだろう。
私がそういう時代に、それらと共に生きてきたのは何かの縁であると共に
一台でも多く、「元気に走り回れる車」を作り、メンテナンスし
次の時代に残していきたい」
それは私の宿命であり、使命だと思う。
今日はその中でも時代に大きなインパクトを与えた
「ランボルギーニ カウンタック LP400」
この日本上陸 3号車を紹介する。
この車は、「1号車の黒メタ」 「2号車の黄色」
3番目のカウンタックとしてシーサイドに割り当てられたのが、このオレンジだった。
当時は全くリクエストなど出来ない時代。例えばボディカラーとか
事実、この3号車は私が自分のお客様からオーダーを頂いて
今のコロナワクチンの順番待ちでは無いが、
ランボルギーニ社から「出来たよ」と連絡が来るまで、
今か今かと待ち望んでいた車だった。
2号車から、かなりの時間がかかり予定より6ヶ月も待たされた。
このお客さんは、当時新宿でキャバレーをやっていて
ミウラSVに乗っていた。
これを下取りに出してLP400の新車をオーダーしたわけだ。
そしてこのミウラは、やはりシーサイドのお客様だった東京の方に
買って頂いたが、その後、中央高速で大事故を起こすことになる。
悲惨な事故で今でも当時のことは良く覚えている。
その時からミウラを売る度に、
「この車では無理な追い越し、オーバースピードのコーナリングをしては
絶対に駄目ですよ」
と必ず教えるようになる。
また、車の構造上 サスペンションの強度が不足しており
慣れた私でも ”直線で” 180キロ以上は怖くて出せない
さて、そうこうしている内に
ようやくメーカーから出荷準備が出来たと連絡があった。
予定を半年も過ぎていたので、
社長の己晴さんから「鞍ちゃん、エアーで飛ばして良いよ」と言われた。
今でもそうだが、船で50万のところ、空輸は5~6倍 300万以上する。
当時はもっと高かったと思う。
飛行機の場合、単純に重さで料金が出る
人が70キロとして、車は約1400キロ
運賃は人が 20万円 その20倍で400万という訳だ
でもお言葉に甘えて、アリタリアエアーのカーゴ便を使うことになった。
船なら45日はかかるところだがエアーなら翌日だ。
飛行機が無事、羽田空港に到着し(成田はまだ無い)
通関を終えて、私が引き取りに行くことになった。
この頃(1976年)私は一応営業ではそれなりの実績を納め、
LP400も、その前に入った2台も何度も走らせていたから
不安とか心配は無かった。
羽田空港の貨物エリアに着くと、既に人だかりが出来ていた。
やはり当時としては、とても珍しいスタイル。
しかもドアーが見たことも無いスイングドアーで上に開く。
だからインパクトが凄かったのだ。
その後、子供も熱狂するのが分かるよね。
その当時の写真を見て貰えば分かるが私はロン毛で白のスーツ姿!!
まるで芸能人かスター気取り(笑)
今となれば面白い時代だった。
現在の様な車載のローダーなど無い時代
だから私がドライブして羽田から首都高に入り横浜まで走らせたわけだ。


上の写真、私が何処にいるかいるかわかるよね。





まだ、ランボルギーニの名前さえ、浸透していない時代。
これを見た人は 何だろう!と驚いただろう。
そこから早くも45年の時間が過ぎた。
それはそのまま私の車屋のキャリアに比例する。