皆さん おはようございます。
私が現在使っている携帯は、アップルの「iPhone13」
つまり最新機種です。
つい先日、「サムスンのギャラクシーZ Fold3 5G」という
折りたたみ式の大画面モデルが気になり購入しましたが、
かなり使いづらく、直ぐiPhoneに戻しました。
この様に、私は意外にも最新モデルが大好き。
ところが車に関しては。。
今流行の電気自動車などには全く興味がありません。
その理由は、子供の頃、青白い排気ガスの匂いを好み
追っかけて走った原体験が脳裏から離れない事にあります。
なので、たとえガソリン価格が「1リッター1000円」になっても、
私は死ぬまで電気自動車には乗りません。
さて、私がシーサイドに在籍していた「1974年~1980年」
今の様にインターネットは無く、
そもそもコンピューターでさえ
旧式のブラウン管方式で一般的ではありませんでした。
シーサイドにも顧客管理や経理を担当する部署に
コンピューターは見当たりませんでした。
当然、携帯もなく。
それが存在し始めたのは1980年を過ぎてから。
当初は自動車に搭載し「自動車の中でのみ使える電話」
そんな時代だから、
シーサイドが「ランボルギーニ」「マセラーティ」の日本総代理店であっても、
その存在を世間に知らしめるのは自動車の専門誌
「カーグラフィック」「モーターマガジン」とか
そんな書面に頼るしか無い時代でした。

これは 「1975年1月のカーグラフィックの広告」
まだ、カッコつけているのがよく分かる。

これは「1975年1月号のカーグラフィック表紙」
その前年に入ってきた「365BBの日本一号車」の取材記事を掲載した。
この車のオーナー市川さんに私も可愛がって頂いた。

同じくモーターファンの記事
その中で特集を組んで貰ったり、お金を出して広告を出したりと。
なので、折角立派なビルを建て、綺麗なショールームがあっても
日本全国のカーマニアにとっては遠い存在。
わざわざ遠方から訪ねる様な人は稀でした。
その意味するところは。。
社長己晴が思い描いた理想とは大きくかけ離れていたと言うこと。
シーサイド倒産後、その事について聞くと。。
「自分としては更地に車を並べていた状態から
いきなりデカいビルを作るのは心配だったと。」
事実、自分の土地ではあったが、
ビルを建てる以前は国道沿いの崖に面した地面に10台位の
アメ車を中心にした中古車を並べた、ごく平凡な車屋だったわけだ。
それがいきなり、「ランボルギーニ」「マセラーティ」の日本総代理店の
看板を出しても、皆が直ぐ認知するはずも無く、
しかも時代はまだ、
スポーツカーと言えば、「日産スカイライン」あるいは「フェアレディZ」
外車で言えば、「ポルシェ」のみが一般的。
「アストン」やら、「ロータス」「アルファロメオ」などは、ごく少数派。
そこに、「フェラーリ」「ランボルギーニ」「マセラーティ」という
日本人にはかなり、馴染みの無いイタリア車とくれば、
お客さんからすれば、「そんな車を買って壊れたらどうする?」
「値段もポルシェより高そうだし、部品なんか手に入るのか?」
フェラーリでさえ正規代理店が無い状態
香港の商社コーンズが手を出したのが1978年になってから。
まだ1ドル=300円以上もする時代。
アメリカはまだしも、ヨーロッパ旅行など庶民にはほとんど縁の無い時代。
だから、「イタリア? ローマ帝国の国か?」その程度の認識。
実際に、それらの代理店契約を結んだにも関わらず、
己晴さんも現地のメーカー本社には行きませんでした。
全て取り巻き任せ。
その意味は中間マージンを取られると言うこと。
事実、我々営業にも現地で幾らの仕入れ、コストがいくらとか
原価に対しての情報は一切教えては貰えませんでした。
何時の時代でも先駆者は苦労するのが定番
なので華々しくオープンしたものの、ショールームを訪れる人は殆ど皆無。
それが実態でした。
さて私が工場の部品担当から、1階のショールームに配置転換したのは
ビルのオープンから5ヶ月程経った翌年の3月頃。(1975年)
その頃はまだ、己晴さんも余裕があったけれど、
訪れるのは、日暮れ時に己晴さんと話す為に来る彼の遊び仲間だけ。
簡単に言えば、車を売るとかの商売には関わらない人達
つまり格好の社交場でした。
そんな中で私がしていたことは?
次回に続く